
中国・江西省九江市での四年間の暮らし
――廬山の静寂とともに生きた日々――
- はじめに
私が中国・江西省の九江市に渡ったのは、今思えば人生の大きな転機でした。
心の病が癒えた後、「第二の人生として、何か新しいことに挑戦したい」と思うようになり、心身のリハビリを兼ねて中国語の学習を始めました。最初は気軽な趣味のつもりでしたが、若い頃から三国志が好きで、いつか遺跡めぐりをしてみたいという夢もありました。
そんな折、偶然のご縁から、中国の大学で日本語を教える話が持ち上がりました。正直なところ、その時点では中国語はほとんど話せませんでしたが、心の奥で「ここからもう一度、人生を歩き出したい」という思いが湧き上がり、迷うことなく挑戦を決めました。
行き先は江西省九江市――当時は名前すら聞いたことのない地方都市でした。日中関係は決して良好とは言えず、周囲からは「今行くのは危ない」「無謀だ」と心配されました。それでも私は、“行かなければ分からない世界がある”という直感を信じました。
不安よりも、未知の国に踏み出す高揚感のほうが
勝っていたのです。
こうして、私は、言葉も十分に通じないまま、
中国の大地へと足を踏み入れることになりました。
今振り返れば、この一歩こそが、
私の人生を豊かにしてくれた
“運命の始まりだったのです。

- 九江市での暮らしと人々
中国に到着して間もない頃、私は学生たちと食堂で食事をしていました。まだ中国語もたどたどしく、身振り手振りで会話をつないでいたある日、近くの席にいた別の学生が、流暢な日本語で話しかけてきました。
「君は日本語学科の学生ではないよね?」と尋ねると、「はい」と笑顔で答えます。驚いて「どうしてそんなに日本語が上手なの?」と聞くと、「日本のアニメで覚えました」と言うのです。まるで東京で暮らしているかのような自然な日本語でした。 その学生の話によると、内陸部の子どもたちは、親が沿岸都市に出稼ぎに行くことが多く、中学から寮生活を送るケースも少なくないそうです。そのため、テレビやアニメが「家族代わり」になることもあり、一休さんやちびまる子ちゃん、ドラえもんなどの日本アニメが、彼らの心を育ててきたのだと言います。
私はその話を聞きながら、アニメが国境を越えて人の心をつなぐ力を持っていることを実感しました。
文化の交流は、言葉よりも先に“心”で始まるのだと感じた瞬間でした。 大学の門前には、いつも多くの屋台が並んでいました。小腹が空いた時には、香ばしい匂いに誘われてよく買いに行きました。中でも印象に残っているのが、ドラム缶を加工して焼き釜にした老夫婦の石焼き芋屋さんです。
こぶし大の焼き芋が一つ、日本円で二十円ほど。三個買うと、おばあさんが笑顔で「一个送你(おまけよ)」と一つ余分に入れてくれます。袋の中には黄金色に輝くふっくらとした芋。ひと口かじると、ほのかな甘みと水分が口いっぱいに広がり、寒い日の身体をやさしく温めてくれました。
中国の食材の安さにも驚かされました。頭ほどのスイカが百円以下で買え、その甘さは格別です。真ん中を切り、スプーンですくって食べると、まるで子どもの頃に戻ったような幸福感に包まれました。
九江市での暮らしは、言葉ではなく“人と人のあたたかさ”で成り立っている――そう感じる毎日でした。


- 廬山の自然と文化 ― 「廬山の真面目」を訪ねて ―
私が赴任した江西省九江市の近くには、中国でも古来より名高い山「廬山(ろざん)」があります。ある日、同僚の中国人教師が教えてくれました。
「廬山には有名なことわざがあります。『廬山の真面目(しんめんもく)』という言葉です。」 初めて聞いた私は「まじめ?」と勘違いしましたが、それは“真の姿”という意味でした。この言葉は北宋の文人・蘇軾(そしょく)の詩「題西林壁」に由来します。
> 橫看成嶺側成峰 遠近高低各不同
> 不識廬山真面目 只緣身在此山中
(横から見れば山脈に、側から見れば峰に見える。
遠くから見ても近くから見ても、その姿はさまざまだ。
廬山の真の姿が見えないのは、私自身がこの山の中にいるからだ。)
一方向から見ただけでは真実はわからない。
立場や角度を変えてこそ、物事の全体像が見えてくる。
この詩を聞いたとき、私は強く心を打たれました。
帰国して廬山を語るには、やはり自分の目でその全体を確かめたい。
そう思い立ち、自転車で廬山の外周約30キロを一周する一泊二日の旅を
計画しました。
出発は、まだ夜明け前の午前五時。寮を出て見知らぬ道にペダルを
踏み出すと、胸の高鳴りが抑えきれません。食料も限られ、中国語も
お世辞にも上手とは言えず、この地方独特の方言がさらに拍車をかけます。
まさに「無謀」と言うにふさわしい挑戦でした。
しかし、走るほどに廬山の姿は刻々と変わり、
まさに蘇軾の詩の通りでした。
霧に包まれ、また姿を現すその山容は、まるで人の一生を映すようです。
「不識廬山真面目、只緣身在此山中」――
この旅の終わりに、私はその詩の意味を、
頭ではなく心と体で理解した気がしました。

- 廬山と日本のこころ ― 西本願寺・虎渓之庭に通じるもの ― 廬山の名を聞くと、多くの中国人は東林寺を思い浮かべるといいます。東林寺は、中国浄土教の祖・慧遠(えおん)大師が開いた寺で、のちに日本の浄土宗・浄土真宗にも大きな影響を与えました。
つまり、廬山は日本人の“信仰の源流”が静かに息づく場所でもあるのです。 慧遠大師は「虎渓の橋を渡らない」という誓いを立て、世俗との交わりを絶ちました。
ところがある日、志を同じくする友人たちと仏法について語り合ううちに、あまりの楽しさに気づけば橋を渡ってしまっていた――その時、山の虎が咆哮し、大師は初めて橋を越えたことに気づいたといいます。
この故事が、日本では「虎渓三笑(こけいさんしょう)」として知られています。 京都・西本願寺には、「虎渓之庭(こけいのにわ)」という庭があります。
その名の由来は、中国・江西省の廬山の麓にある絶景「虎渓」を模して造られたことにあります。御影堂の屋根を廬山に見立てた借景の庭園で、書院の前庭としてつくられた枯山水の庭です。石の配置や砂紋の静けさの中に、深い精神性が表現されているといわれています。
廬山の東林寺に流れる霊気と、西本願寺の庭に漂う静寂
その二つは、千年の時を隔てながらも、不思議な調和を感じさせます。
私が中国で過ごした四年間は、まさにこの“虎渓の橋”を渡るような日々でした。
言葉も文化も異なる中で、学生や同僚と心を通わせるたびに、
自然と笑いがこぼれます。
その笑いの中にこそ、国境を越えた“人と人とのつながり”が確かに
息づいていたのです。
その笑いの中に、国境を越えた“人と人のつながり”が確かに
生まれていたのです。


- 帰国して思うこと ― 養生訓と第二の人生に重ねて ―
四年間の中国での暮らしを終え、日本に帰国してまず感じたのは、「心の風景が変わった」ということでした。中国では、言葉が通じなくても、笑顔ひとつで通じ合えることを何度も経験しました。
九江の町を歩いていた時、遠くから微笑みかけてくれた
初老の男性がいました。近寄ってみると、なんと亡き父に瓜二つだったのです。
言葉は通じませんでしたが、心の中でお互いに感じるものがあったのは
間違いありません。
ここで出会った人々の優しさや、困難の中にもたくましく生きる姿が、
私の心の奥に深く刻まれました。あの廬山の霧のように、静かに、
しかし確かに私の人生を包み込んでくれたのです。
帰国後、改めて読み返したのが貝原益軒の『養生訓』でした。
そこには「怒らず、欲を抑え、心を平らかに保つことが長生きの道である」
と書かれています。
まさに、廬山で見た東林寺の静けさ、西本願寺・虎渓之庭の静寂に
通じるものがあります。
養生とは、単に身体を整えることではなく、心を澄ませて生きること。
そして、それは自分の中に“もう一つの廬山”を持つことなのだと気づきました。
私はかつて心の病の暗闇にありました。何も見えず、何も聞こえず、
ただ自分の中で苦しみ続ける日々でした。
けれども、あの九江の廬山や東林寺の空の下で、
多くの人々の温かさに触れ、 少しずつ心がほぐれていったのです。
廬山の“真面目”という言葉のように、人生もまた、
一つの角度からでは見えない。
苦しみもまた、見方を変えれば、成長の糧になるのだと知りました。
帰国後は、養生訓をベースにした講演を行っています。
中国で学んだ「心を開く勇気」と「相手を思いやる優しさ」
をお伝えしたく、 活動を続けています。
※このレポートは講演の一部を抜粋したものです。転載・複製はご遠慮ください。
――あとがき――
九江での四年間は、私にとって“再出発の時間”でした。
言葉も文化も異なる中で、人の優しさや生命のたくましさに何度も
心を打たれました。
廬山の霧に包まれた静けさは、いつしか私の心にも静
もたらしてくれました。
この体験があったからこそ、
今の私の講演や養生訓への思いが生まれたのだと思います。
人は、何歳からでも変われる。
そして、心をひらけば、どんな国の人とも通じ合える。
これを、読まれる方の人生のどこかに、
小さな光となって届くことを願っています。
香月恭弘
